ARTIST:

Baths

TITLE:
Obsidian
RELEASE DATE:
2013/05/15
LABEL:
Anticon / Tugboard Records
FIND IT AT:
Amazon
REVIEWSJuly/05/2013

【Review】Baths | Obsidian

 何故、人は死を忌避しながらもそれと同時に、死に魅了されてしまうのだろうか?古来、死は人々を魅了してきた。畏怖の対象としてであれ、神聖な対象としてであれ、生を授かった瞬間から死すべき運命にある我々にとっては、それは最も避けがたく、常に生の裏側に潜む真理、絶対に不可侵的な領域として存在し続けている。しかし、全ての生命が終極点として共有している死は、絶対に個別的な経験であるゆえに、我々にとっては最も遠く、最後まで経験できない領域でもある。人が認識できる死は、「個人の死」ではなく、「他者の死」でしかあり得ないのだ。それゆえに近代的自我は、常に未来に存在しつづける不確かな死から逃避することでその存在を確立し、近代社会も死を隠蔽することで発展してきた歴史を持つ。しかし、死とは経験できず、無はそれ単体では抽出できない概念だからこそ、逆説的にその具現化が望まれ、人々はその所有を望み、魅了され続けてきたのだともいえないだろうか。

 さらに、古代から芸術こそがその役割を担ってきたと言えよう。芸術は死を代理化された形式としてであれ、所有したい人々の欲望を刺激し続け、それ自身にとっても死を語る営みは不可欠なものであった。芸術の発祥として語られる洞窟壁画の時代から、宗教画などを辿り現在に至るまで、死は常に重要なテーマである。狩猟採集の場面が描かれた洞窟壁画が表すように、芸術はその誕生に生と死が重なり合う瞬間を内包しており、「死の思想」とイメージを人々は芸術を通して理解してきたのだ。そしてここにまた、死に魅了された芸術家が1人いる。彼の名はBaths。本作『Obsidian』が2枚目のアルバムである。

 Bathsという少しばかり奇妙なアーティスト名を冠した青年、Will Wisenfeldは、2010年、『Cerulean』という名のアルバムで、鮮烈なデビューを飾った。セルリアン、つまり瑞々しい青というそのタイトル通り、子供のように無邪気に空間中を飛び回るかのような迸るリズムに、声変りを経験する前の少年のような天を衝く瑞々しいファルセットが一体となって構築された彼の世界は、若さの発露であると同時に、処女作のみが持つ才能の輝きに溢れた1枚だった。そして、Flying Lotus以降のLAビート・シーン由来と思われる構築性の高いトラック・メイキングのセンスと、チル・ウェイブ以降の潔癖的で漂白されたようなチルアウトの流れの最先端を敏感に感じ取り、ある種先取りしたかのような音楽性は、その輝きが単なる衝動性の発露で済まされるものではないことも示していた。

 しかし、これほどまでの変化を一体誰が予想できただろうか。黒い羽根をたためた堕天使ルシファーの姿にも見えるジャケットの人物が象徴的だが、二枚目にして一転、天界から地獄へと落ちたかのような本作に渦巻くものは、禍々しい感情と暴力性の発露、死の欲動である。日本のアニメに詳しいらしいBathsにとっては、『Cerulean』で見せた世界が「ジブリ」だとすれば、一転して深い闇の中へと聴く者を誘うこのアルバムの世界はゴシックで退廃的、天野喜孝の耽美的な絵柄が強烈な「吸血鬼ハンターD」にでも例えられようか。

 そう、死の欲動に溢れたこの世界にも「美」は存在している。その点においてはBathsの魅力である声の魅力は1枚目にも引けを取らないレベルで常に研ぎ澄まされているようだ。逆に闇があるからこそ光がより輝いているとも言えるだろう。そこには忌避されながらも、人々を魅了してやまない死の両義性をも良く表現されているように思われる。『Cerulean』の冒頭で響かせていた讃美歌を思わせるような天を衝く清々しいファルセット・ボイスの響きが、本アルバムの冒頭曲である「Worsening」では一転して、耽美的な妖しい魅力を放つ響きに変わっており、そこでまず我々は今作に満ちる彼の心境の変化に気づくことになる。

 さらに、全体を通して今回のアルバムで大きく強調されている要素は、悲哀に満ちながらも美しいピアノの調べである。「ピアノは最上の音楽的アイディアをくれると思う」と今作のライナーノーツには記されているが、Bathsにとってはこれまでも重要なアイデンティティの一部であったピアノをより中心に据えたビート・メイキングが、今作の大きな特徴だ。街は雨、その中にか細く響くのはピアノの音だけ、という心象風景を喚起するようなサウンドスケープに、ヴァイオリンの哀愁溢れるメロディがさらに感情を駆り立てる「Miasma Sky」、イントロのピアノのフレーズのループを軸に徐々に弦楽カルテット、ハープが折り重なり耽美的な世界を構築していく「Ironworks」といった楽曲が連なる部分は、今作でも重要なハイライトである。各楽曲を大まかに分けるとすれば、「Worsening」~「Ossuary」では死の退廃と甘美が歌われ、中盤の「Incompatible」「No Eyes」で歌われるのは愛の無常さ、そして最終的に「Earth Death」において辿り着く地点は絶対的に不可避な死への絶望感であり、徐々にビート自体も強迫的でインダストリアルな要素を曲毎に強めていくかのような構成である。そう、Bathsの前作までの楽曲の特徴と言えるビートの解放感を考えると、全体的に強迫的で硬直化したリズムも今作の大きな特徴だ。楽曲の重厚さを選んだ結果だとは考えられるが、インダストリアルという要素を考えれば、Raime、Demdike stare、Andy Stottといった現代におけるインダストリアルの継承者たちとの共振として見ても興味深い。

 しかし、あの天衣無縫さを称えたビートに魂が宿るかのような姿を見せていたBathsに、ここまでの作品の変化をもたらしたものは何だったのか。そう、それは彼自身の身に降りかかった病気と「死の思想」を語る芸術の営みであった。

 Bathsの急病が伝えられたのは、2011年10月の来日公演を控えた正にその時だった。その後、改めて再来日は果たした訳だったが、健康問題はその後も尾を引き、同時に進めていたレコーディングにも大きな影響を与えたという。そして、その時初めて陥ったという精神状態、「無気力/apathy」を経験した彼は、今作のコンセプトとしてそれ自体を掲げ、ペストや死を描写した中世の絵画、グロテスクなイメージを描写したポップアートからも大いにインスピレーションを受け、本作を製作したのだ。ペストを描写した一連の絵画様式で有名なものとして「死の舞踏」というものがある。14、5世紀の中世ヨーロッパにおいて全土の人口の1/3をも減少させたという猛威を振るったペストの衝撃と、百年戦争の影響がもたらしたというこの絵画様式の特徴は、皇帝から子供に至るまで全ての身分の者が踊る骸骨の行列として描写されている点である。そして、ここに表現されているのは全ての人類に降りかかる平等な死、全ては無に統合されてしまうという「死の思想」だという。この様式の成立背景に集団ヒステリーの存在など諸説はあるが、正に目前に迫っていながら実体が掴めない「死」という概念そのものを具現化し、所有したい人々の欲望が結実して誕生した様式であるだろう。

 そして、「死の舞踏」において具現化と所有の欲望にさらされていたものが「死」そのものならば、今作においてもそれは同様であるが、さらにそこから滲み出ている感覚がある。それは、時代に対する厭世観ひいてはベッドルームポップの「憂鬱」とでも呼べるだろう感覚だ。現実逃避的な性格を有しながらドリーミーな世界を形成するベッドルームポップは、この世界に対する違和感を代弁する音楽である。そして、その違和感はこの世界に対する絶望、厭世観へと簡単に反転しうるものでもある。世界に対する寄る辺なさが、前作では過剰に神聖化された世界への逃避、今作では世界そのものへの絶望として表現されたと考えれば、あながち今回の変化も唐突なものではないと言えるかもしれない。「死の舞踏」の背後に潜んでいた「死の思想」は正に、現代においては現実の不条理として目前にある。共に昏迷の時代を生きる人間として、中世の人々の死生観に共鳴できる心理は現代人ならば誰でも持っている筈なのである。

 最後に、あえて唯一残念だった点を挙げるとすれば、楽曲の重厚さを選んだ結果大きな魅力であったビートの解放感が減少し、無重力的な空間認知を感じさせる音の配置の面白さがある意味、犠牲にされてしまったことだろうか。しかし、これがBathsの新境地だと思えば納得出来ることも確かだ。ゴシックな曲調が特徴的なトラック・メイキングとLAビート・シーンとの関連性でいえば、間違いなくDaedelusの影響を考えたくなるところだろうが、元から単なる二番煎じで終わる心配は皆無、彼にしか作り得ない音楽がここには存在しているのだから。

文:宮下瑠
1992年生まれ。UNCANNY編集部員。得意分野は、洋楽・邦楽問わずアンダーグラウンドから最新インディーズまで。青山学院大学総合文化政策学部在籍。