COLUMNSApril/28/2018

[Column]レビューの書き方について − 実践編 tofubeats『FANTASY CLUB』

 次に実践編として、tofubeatsさんの『FANTASY CLUB』のレビューを解体することで解説していこうと思います。事前にレビュー本文を一読して頂いていることを前提として話を進めます。

 まず、テーゼは、以下の一文になります。

“『FANTASY CLUB』において、tofubeatsは〈確かなもの〉を希求する。”

 このテーゼの設定が最も重要なのですが、前回述べた「書き方のプロセス」の「Analyzing the assignment」、「Brainstorming」、「Organizing your ideas」での作業内容が重要になります。テーゼが決まったら、次になぜそう言えるのかを本文で証明していくことになります。

 まずイントロダクションを説明します。

“私たちが見ている世界は〈確かなもの〉なのだろうか。例えば、机の上にあるペットボトルとスマートフォン、試しに買ってみた数冊の雑誌。鏡像を認識する私たち自身、あるいはSNSの中にいる私たち自身(それもある種の鏡像だ)。すべては、現実にあるかのように見えて、存在しないものと言えはしないか。“何かあるようで、何もない”のではないだろうか。”

 ここのポイントは、「現実にあるかのように見えて、存在しないもの」になります。これは、哲学の用語で「仮象」と言います。ここでの「鏡像」は、ラカンの「鏡像段階」のように、鏡に映る自分を認識することを示唆しています。

 「何かあるようで、何もない」は、歌詞からの引用です。本文では、歌詞を引用することで、「tofubeatsさん自身がそう述べている」という事実として、あえて配置しています。

 つまり、このイントロダクションは、「鏡に映る自分自身も含め、この世の中のすべてはもしかして仮象なのではないか、本当に確かなものは存在するのだろうか」という問いに対して、「確かなものの存在」を証明しようと試みたのが、この作品『FANTASY CLUB』なのではないか、という筆者の仮説(すなわち、テーゼ)を記述したものになります。

 次に、ボディにあたる一番目のパラグラフを見てみましょう。

 tofubeatsさんは、様々なインタビューで、このアルバムのテーマは「ポスト・トゥルース」だと発言しています。よく聞くと、自分が信じていたインターネットに、「ポスト・トゥルース」と言われるメディアリテラシーの問題が起きて、それを見過ごすことができなかったようです。

 インターネットは、常に過去の常識を破壊してきました。楽曲を無料で配布するネットレーベルもまた、過去の常識を破壊して誕生した新たなモデルのひとつでした。また、tofubeatsさんは、アルバムをコンピレーションのような形式で捉え制作してきたと述べています。それは、ネット時代における個人主義に対応するための方法だったとも言えるでしょう。

 ここで、tofubeatsさんは、インターネットは単なる破壊者ではないということを証明したかったのではないか、というのが筆者の仮説です。伝統的なスタイルによるアルバム制作は、細切れの物語ではなく、ひとつの価値観や歴史の塊をアルバム一枚にまとめあげることを意味します。つまり、「ポスト・トゥルース」という問題が起きているが、インターネットは、歴史や伝統をただ破壊してきたわけではなく、むしろそれらを理解した上でアップデートしてきた側面もあるということを、インターネットに大きな影響を受けてきたと自認するtofubeatsさん自身が今回のような「アルバム」作品を制作してみせることで証明したかったのではないだろうか、という見立てです。さらに言い換えるなら、インターネットは正しい面も持っているはずだという主張です。これがひとつ目の〈確かなもの〉になります。

 二番目のパラグラフを見てみます。ここでは、「郊外」という場所と「愛しあう」という人間の感情を対比させて理解することを試みています。

 「郊外」というのは、tofubeatsさんにとって、重要なテーマのひとつです。郊外に存在する商業施設の名前を冠した「SHOPPINGMALL」では、「何がリアル、何がリアルじゃないか そんなこと誰にわかるというか」とtofubeatsさんは述べています。

 「郊外」という場所もまた、「現実にあるかのように見えて、存在しないもの」=仮象のような錯覚を覚える場所です。全国で画一化された風景は、リアルなのだけれども、本当にリアルなのだろうか、と一瞬私たちを戸惑わせるのに十分なものです。一方でそれらは、利便性や効率化を追求した結果出来上がった先進的なものと捉えることもできます。そういった意味では、歴史を破壊した面において、「郊外」はインターネットに似ています。

 一方で、「郊外」という仮象に関係なく、「愛しあう」という人間の感情は〈確かなもの〉なのではないか、とtofubeatsさんは「YUUKI」で表現しています。

 「晴れた日には街に出かけよう」、「晴れた日には街を眺めよう」は、「郊外」という場所を想起させます。「YUUKI」は、tofubeatsさんではなく、sugar meさんがヴォーカルをつとめています。先の歌詞は、tofubeatsさんの愛する対象が、tofubeatsさんにそのように語りかけていると捉えることもできます。

 そして、「愛しあう」という歌詞が繰り返されるのですが、ここで、sugar meさんとtofubeatsさんは一緒に歌っています。つまり、「郊外」という仮象のような場所に関係なく、目の前にいるあなた(私)は、自分(あなた)にとって〈確かなもの〉と言えるのではないか、とtofubeatsさんはここで言いたかったのではないか、と捉えることができます。

 「YUUKI」に続く「BABY」では、tofubeatsさん自身がヴォーカルを担当します。「BABY」は、「YUUKI」への返答と考えることもできます。つまり、「私」から「あなた」への回答です。他者である誰かを愛する(信じる)には「勇気」が必要です。そして、「BABY」では、「ドキドキは今以上」、「君だけを見て導かれる」というように、「私」であるtofubeatsさん自身が、対象となる「あなた」を愛している、「あなた」は自分にとって重要な存在であると明らかに伝えています。確かに、このような人間らしい感情こそ、〈確かなもの〉と言えるのではないでしょうか。

 三番目のパラグラフを見てみましょう。「歴史を内在化したものとは言っても、本作は単純な構造ではない」と書きましたが、これはつまり、だからといって『FANTASY CLUB』は、「前衛」を否定した作品ではない、という意味です。

 この作品では、複数の楽曲が対になっており、同じフレーズが用いられることで、非現実の世界にいるような錯覚を聴く者に与えます。まさに、仮象の世界にいるようです。

 これは、tofubeatsさん自身が箱庭的な場所から見解を述べているのではなく、社会全体を俯瞰して見ていることを示唆しています。インターネットは、社会のノイズを表現する場所としても機能してきました。本作でも、tofubeatsさんは、持ちうる技術とアイデアを駆使して、それらのノイズを表現して見せています。それは、これまでの伝統や歴史のすべてを肯定しているわけではないと主張していると捉えることもできます。

 歴史や伝統の間違った部分を否定して前に進むこと(すなわち、前衛的であること)、それこそが多くの人がインターネットに期待したものと言えます。tofubeatsさんは、これもまた〈確かなもの〉と言いたかったのではないでしょうか。

 最後の結論は、イントロダクションの言い換えになります。筆者は、「私たちの目から見た現実は現実なのか? そして、あなた(私)にとって〈確かなもの〉とは一体何か」と書きました。

 みなさんにとって〈確かなもの〉は何でしょうか? 筆者は、「YUUKI」と「BABY」は本作の核心ではないかと思いました。それは、結局すべてが仮象のような世界だとしても、せめて「愛しあう」ことだけでも〈確かなもの〉であってほしい、という主張への共感でもあります。

 以上が、今回の『FANTASY CLUB』のレビューを解体した実践編になります。不完全であることも含めて、このようにレビューによって、書き手も読み手も「作品(テクスト)」を通じて、「社会」や「私」を改めて客観的に捉え、思考することで、自己を見つめ直したり、他者と話し合うことができるのではないだろうか、というのが、本サイトにおけるレビュー掲載の試みのひとつです。またそれは、本サイトを継続し続ける理由のひとつにもなっています。(了)

(注)「レビューの書き方 – 基礎編」は、存在しますがまだ公開していません。本文は構成上その続きになっています。

 

text by T_L (UNCANNY)