ARTICLESMarch/20/2018

[Interview]”ツァイトガイストを探して” Nukeme × Houxo Que × LLLL (Part.1)


僕は嫉妬しているんだと思う。時にラップトップのスクリーン越しに時にストリートで目を凝らすとうっすらとその時代の風を身にまとっているように見える彼らのことを。

探すと居なくなり、見えなくなったと思うとふと現れては人々を翻弄していく時代の風みたいなものを僕は昔から追い続けてきた。ドイツの哲学者ヘーゲルは、歴史は理性という機械仕掛けによって振り子のように進んでいく一つのメカニズムという形を説き、その時代精神のことをツァイトガイストと呼んだ。

僕にはその時代を推し進める巨大な機械にまたがり時代を牽引する人達がうっすらとこの風のようなものを身にまとっている様にみえてならない。

そして今回、2017年終盤から2018年にかけて僕が大切に思っているクリエイターの方々とこの歴史の風を探す会話をしてみたいと思った。これはその断片を紡いだものである。(LLLL, 2017-2018)

LLLL:フォーエル……東京を拠点とするプロデューサー/音楽家 https://soundcloud.com/lllltokyo
Nukeme……ファッションデザイナー/アーティスト http://nukeme.nu/
Houxo Que……美術家 https://twitter.com/quehouxo

現代美術家、“Houxo Que”と”Nukeme”について

LLLL: まず、お二人の簡単な自己紹介をお願いします。音楽メディアっていうこともあるので、アートの世界をあまり知らない人たちにも、わかりやすく説明してもらえれば。

Houxo Que: ぼくは、現代美術で主に活動している美術家という、感じですね。どういう活動をしているのかと言えば、ディスプレイとか現代に在るメディアに対して、ペインティングという、非常にある種古典的な表現方法というのを介入させて、現代で起きていくことだけではなくて、歴史的に大きなスパンを描けるように美術の手法を扱っています。

LLLL: なるほど。次に、Nukemeさん、お願いします。

Nukeme: Nukemeと言います。ファッションデザイナー兼アーティストとして、ファッションアイテムをデザインしたり、全くファッションと関係ない作品を作ったり、その中間みたいなものを作ったり、色々やっています。

LLLL: ありがとうございます。たぶん、お二人とは二年前くらいに出会ったのかな。今回、お二人にお願いしたのは、当然、ファンであるということもあるんですけど、それと同時になんかすごく似たポイントもあるのかなという風に感じているところもあったんですね。

技術的無意識

LLLL: それでひとつ、質問として考えてきたことが。昨日、横浜トリエンナーレに行ってきたんです。全体的に楽しかったんですけど、なぜか、マン・レイの作品があったんですけど個人的にマン・レイが一番良くて。あれはいいですね。

Nukeme: あれはいい。

Houxo Que: マン・レイはいい。

LLLL: いいですよね。実は、全体的にちゃんと時間をかけて見たわけじゃなかったんですけど、マン・レイ、改めていいなーと思って。なんでマン・レイがあったのかはよくわかってなかったんですけど。それはいいとして、彼の作品は当然、フロイトをはじめとする20世紀の無意識の問題

Nukeme: うん。

Houxo Que: そう。

LLLL: 何ていうかな、無意識の問題を視覚的に表現するというところからスタートしていると思うんですけど、多くの20世紀の作家がそういう無意識の問題というものを取り上げていて、無意識の問題って、今どうやらフロイトの時代からいろいろ拡張されているみたいで。フロイトは自我の無意識という所について凄く興味を持っていたんですけど、今の、特に21世紀、まあ、すごく昔からあるものだと思うんですけど、技術的無意識というものがあるらしいんですね。

技術的無意識ってちなみに、レジス・ドゥブレという哲学者が提唱したんですけど。どういうことかというと、例えば、技術、テクノロジーがあるところには、その意識のレイヤーと、それがどういう風にシステムとして動いているかという無意識の部分で存在しているという二つがある、という。

例えば、テレビって実際のところ30FPSとかで、つまりフレームが1秒間に30枚、絵が連続的に動いているわけじゃないですか。 現実的に、あれは、写真が連続して動いているんだけど、それによってあたかも現実のストーリーのように物語が伝わる。ここが意識の表層そして1秒間に30枚現れる写真という技術が無意識に存在するわけですよね。それが技術的無意識だという。

例えば、フロイトは、夢が無意識を意識上に引き出すような作用をもっていると言っている。技術的無意識の場合、テレビの例では、サブリミナル効果が似た例えになると思うんですよね。サブリミナルで30枚の中に1枚だけ違う全く違う絵が入ることによって、それがむき出しになるというか。

その技術的なものが一気に表面に出てきて、そうか、これは普段気が付かないテクノロジーに支えられているんだというのを露わにさせられるということ。まあ、マン・レイの夢も近いと思います。

例えば、Queさんの作品だったら、ディスプレイにペインティングを施すことで、本来的には、ディスプレイってその中に物語があったり、感動できたり、官能的だったりとかする。その上に、ペインティングという異物が重なることによって、その二つの全く違うメディアが統合されることで、むしろ分裂してしまう。ペインティングとスクリーンが一緒になることによって、分裂したものに見えてしまうという。

Nukemeさんのグリッチだったら、完璧なイメージを持つ資本主義の企業のロゴに、すごく無作為なグリッチが入る。ある種無菌で完璧なシステムの企業という表層意識にグリッチというテクノロジーのバグが入ることによってそれを支える無意識が表層化してくるというのを感じます。

そういう意味で、お二人はすごく近いと思ってるんですね。そういうところについて、どういう風にお考えか教えてください。

物としてのディスプレイ

Houxo Que: 技術的無意識の話につながるのか、わからないんだけれども、そもそも、ディスプレイがあたかも物のように見えるっていうか、そもそも物なんだよね。

だけどそもそも、ディスプレイをディスプレイたりえる本来の使い方をしている限りは、物としてのディスプレイというのは決して自覚されない。何でかっていうと、ディスプレイを私たちは物として見ているんじゃなくて、窓として見ているから。そこに何かこう、情報が表示される、端末であるとして見ているから、物の情報を見ているのではなくて、正確にはそこに表示される情報を見てしまう。

だけども、果たしてその態度一辺倒でいいのかなという疑問が僕にはあって。結局、ある種の、90年代とかゼロ年代のオタクをこじらせているような考え方で、どんなに美少女ゲームの中をこじらせても、キャラクターと自分の身体が決して結ばれない、大きな隔たりがあるじゃないですか。

その隔たりの境界面がどこにあるのかというと、間違いなくディスプレイで。だから、オタクたちの表現の中に、常にある種ディスプレイの界面としての意識が言葉として存在しているんですよ。二次元に行きたいということは、要は、ディスプレイを通した界面の向こうは二次元という彼らが想像している世界があって、そこに行けば、ぼくは彼女たちと結ばれる。だから、二次元が来いというのは、この界面から出て来い、この界面が来いと言っていることだと思う。

Nukeme:電影少女(ビデオガール)」でしょ。

Houxo Que: そうそう。そういった、ビデオガールとかそういうその中にある、僕もそういった倒錯した感情を抱いた時期があるというか、実際現在もそういう感情があるんですけど。オタクだったら、自分が好きなキャラクターが表示された画面にキスのひとつくらいしたことがあるはずなんだけど、やっぱり、そのキスをする瞬間に「あ、ディスプレイってやっぱり、物質なんだ」っていうのがわかるんですよ。その時に感覚するのはディスプレイの放熱と静電気だから。

本当に純粋な情報なら、キスをするという物理な接触も不可能で、だから仮に「二次元」に行ったとしたら、なんとなく想像しているような、物理空間にある身体の延長ではない可能性もあって、そもそも身体があるかすらわからないから性愛とか関係性は生まれない可能性とかがある、結局、ディスプレイは物だっていう一つの現実と、ディスプレイは窓であるという比喩。この両義的に共存しているメディアに対して、界面を感じているときには、私の身体と、そして画面の向こう側の空間、またはそこにある(と想像してしまうもう一つの)身体、という対立構造があり、それに対してどうやってアプローチしていこうかということです。

ペインティングって、非常にシンプルに行為から定義してしまえば、何かしらの支持体に対して絵の具を接触させて定着させる表現なんですよね。だとすると、ディスプレイ、これは窓で向こうに空間がある、他方で現実として物である。ならば、その物の上に絵の具は定着可能なんだから、まずは一回接触してみようというところからはじまったんです。

私たちが何か技術であるとか、情報というものに触れているときに、無意識に引き付けている比喩みたいなものが確実にある。それを一度暴いて、またその上で、それが社会的にどのようにして承認されて、ドライブして、また、私たちの社会活動に影響を与えているのか、ということを模索することが、自分の活動の非常に重要な部分であると思っています。

Houxo Que – 16,777,216 view #3, 4, 5 and 6 (from left)(2016)

LLLL: なるほど。Nukemeさんはいかがですか?

Nukeme: 例えば、自分の作品にWindowsを木彫りした「Old School」というものがあります。立体物に直接プリントできるバーティカルUVプリンターっていうプリンターを使って、Windowsのアイコンを木材に直接プリントして、彫刻刀で彫って、木の表面をささくれ立たせるという作品なんですけど、菅木志雄さんという美術家の作品がインスピレーションの素になっています。

菅木志雄さんの作品に、ベニヤ板にぼこぼこ穴をあけて、ささくれ立たせている作品があるんですけど、それが、ポストインターネットを通過した状態の自分で見ると新しい感動があって。物の佇まいをただすっと前に押し出してそれで終わり、という感覚が、例えば、ネットアートの文脈で、デフォルトのPhotoShopのグラデーションをただ大きくプリントしたり、ツールの特性をそのまま前に押し出しているみたいな作品があると思うんですけど、本人たちがやろうとしていることは、物質とデジタルという違いはあれど、結構近いんじゃないかと思ったんです。

もちろんただ模倣するというんじゃなくって、それが僕の中で再解釈されて、もう一度、ヒノキとデジタルなアイコンを接着することによって、この文脈のマイナーアップデートみたいなことが可能なんじゃないかなと思って。この作品は、「画像を直接削る」っていう、不可能性にトライしてみようっていうのが元のアイデアとしてあったんです。画面の向こうの観念の世界には物理的に接触することができないという意味では、さっきのQueさんの話と共通するものがあるかなと思います。


Nukeme – “Old School”(2015)

アナログとデジタル

LLLL: なるほど。音楽に関連して言えば、自分は、最近、デジタルテクノロジーじゃなくって、アナログテクノロジーにすごく興味があるのですが、デジタルテクノロジーとアナログテクノロジーの違いって、デジタルって、要は、演算のバイナリーの世界で物事が構築されているというか、1か0の世界で構築されていて。

例えば、ディスプレイでいうと、アップルのRetinaディスプレイっていう網膜ディスプレイがあるんですが、ぼくはあの言葉があまり好きじゃなくて。人間の網膜だと、認識できないレベルで細分化されているから、本来なら0と1のポイントが見えないっていうことになっているじゃないですか。全く同じことが音楽の世界にもあって、音楽だと20ヘルツから20キロヘルツまで人間の可聴帯域とされているんですね。要するに、一秒間に二万回、波があって、その速さ、高さまで人間は聴こえるということが定説になっている。例えば、CDって44.1キロヘルツなんですよ

どうしてかっていうと、サンプルをする際に、絶対に二分の一のところにノイズが乗るってされてるんですね。44.1キロヘルツだと22.05キロヘルツのところにノイズが乗るんですよ。そういうのをエイリアシングノイズっていうんですけど、で、そこのところにフィルターかけないとデジタルノイズが一気に入ってしまうんですね。だから、22.05キロヘルツのところにCDだとフィルターをかける。そうすることによって、要は、人間の耳って20キロヘルツまでしか、聴こえないという前提のもとに22.05キロヘルツのところにフィルターをかけるので2.05キロヘルツも余白があるから、問題ないよね、っていうことになっているけど、誰もがCDクオリティと現実の音の違いが明確にある っていうのは、間違いなくわかるわけです。

例えば画像とかもそう。有機的なものって連続性がものすごく細密にあって、さっき木とディスプレイもそうだと思うんですけど、綿密さが半端ない。ぼく、アナログ機材を最近こよなく愛し使い始めてるんですけど、使ったときにデジタルと全く違うという温かみというか、きめ細やかさがあるんですよね。アナログの方が圧倒的に細かくて、そういうところを対比されるっていうか、三人とも共通しているのが若干あるっていうのかなっていうのがありました。

Nukeme: まあ、離散的じゃないですよね。0と1で区切られているような。フィルムで撮られた映画みたいに、コマで分かれているような、そういった記録の方式を離散っていうんですが、それに対して、連続っていうのがあって。

Houxo Que: でも自分は、アナログがマッシヴで、デジタルがある種の有限性があるというか、見方は結構懐疑的で。単に今は2010年代だからそう思うだけの話で、例えばRetinaディスプレイ、あれは、単に、アップルの戦略的なフレーズですよね。網膜って言葉を使えば、みんなが興味を持つっていうマーケティング手法だと思うんだけれども、そういうことではなくて、単に、私たちの身体にとって、それがどの程度のレベルで判断可能なものなのかっていうことに過ぎないと思っていて、要は、デジタルの0、1で、計数可能なもので作られていたものでも、私たちにとっては、ほぼ無限対数に近いような領域に達していれば、身体的には豊かであると感じるアナログと差はなくなっていくのではないかと考えている。そのことを、線引きをすることに果たしてどれほどの意味があるのかって疑問に思うんだよね。

そもそも、アナログかデジタルかっていうのは、情報処理の仕方の話で、この世界そのものがどちらに属するかということではないから。

LLLL: なるほどね、すべてのことを運命論でないけど、理神論的に考えることも可能だという。

Houxo Que: 私たちの身体とどれほどの距離があるのか、観測可能は範囲にあるのか、ということがある。だから、デジタルとアナログの違いが明確に表れるっていうのが、やっぱり情報量のギャップがある時期なんですよ。デジタル化した時に、あ、違う、っていうのは分かる。それが、もし、デジタルも同じマッシヴな領域にドーンって来た時には、それはわからないでしょ?

LLLL: なるほど。ぼくもアナログの方がいいよね、って言いたいのではなくて、アナログの方がいいよねっていう感覚、時代性があるよね っていうのが、すごく今、言いたい事です。例えば、機材の話になるけど、RE-201スペースエコー っていう、有名なアナログディレイがあるのね。これ、ヤフオクとかで見てみるとわかるんだけど、RE-201の後継機種のRE-3デジタルエコーをみると価格がかなり安くなるんですよ。こういうの例はいっぱいあって、MS20というアナログシンセの後継機種がデジタルシンセのMS2000で、これも中古価格に圧倒的な差がでている。

Houxo Que: たぶん、デジタル化することがある程度可能になってきた時代なんだけれども、デジタル化したときに、情報のレベルとしては再現がほぼ可能になってきているにもかかわらず、それを私たちがなにかしら、出力しようとしたときに、やっぱりまだある種の差異が生まれてしまう時代というか。だから僕はディスプレイの上にペインティングを行っているっていう行為は、本来このテクノロジーがどんどん突き進んでいけば、いつかはペインティングが乗っているという認知自体が崩れていくようなレベルにいつか達するはずだと思うんだよね。でも、まだ僕のペインティングの作品を作った時代はそういう差異があったという歴史を登記するためにやっている。

LLLL: 確かに時代的ではあるよね。

Houxo Que: 時代性とか、ある種の社会性というものを、何を描くかとか、モチーフとかそういったものとかに、あまり僕は預ける気がなくて、どちらかというと、描いた基底材であったりとか、その技術の領域。それは技術っていうのは間違いなくその時代の証明になっていくから、それをやっていく。そのなかで、技術によってどういった社会があったのかというところを、逆流させるような表現をしたいなとは思っている。

Nukeme: GraphersRockのTamioさんが言っていたんですが、iTunesで入稿するサムネイルで、Retinaディスプレイ用のサムネイルの解像度が印刷の解像度より高いという話があって。それって、象徴的な話で。CDの可聴域とか、アナログシンセとデジタルシンセとか、解像度がちょうどいい感じにつり合いはじめてて、Que君が言ったような、必ずしもアナログがマッシヴとは言えない、そういうことを考える時代になったんだなと思う。

LLLL: どうして今、人がアナログに回帰しようとしているかって考えた時、根本的なクオリティの良し悪しっていうよりは、大切なのは、アナログの持つ身体性とか物理的な要素に人がすごく惹かれているんじゃないかなって思っていて。

たとえば、アナログシンセでいうと、実際、物理的に物を触って演奏していく。ディスプレイって、まさにディスプレイっていうものを介在して向こう側にいるけど物は自分と同じレイヤーにいるっていうところで、物事が完結しているっていう感覚が、今どんどん失われつつある。隔たりのある向こう側の世界と僕らは経由していかなくちゃいけない。それに対する恐怖っていうのを潜在的に持っている人が沢山いて、AIに対する恐怖とか、向こう側に存在するっていう、対立構造を考えてしまっている人が多いと思っていて。それの恐怖の表れなんじゃないかと。

Houxo Que: 実は、アナログがフィジカルで、デジタルがバーチャルというよりは、どっちも僕はフィジカルだと思うんだよね。計算機だってハードウェアっていう存在があるから。そこで例えばバーチャルと言われている空間が生成されている。ただ確かに、触れる機材で、再現される身体性には今は差異があると思う。しかし、どちらにも身体性はあって、なぜ現代ではデジタルの方がより(ラカンの言う)〈想像界〉というか、何か別の空間を引き付けてしまうのかということの方がすごく興味深い。

Nukeme: それは、物理的なサイズと記録できるサイズにすごい差があるから、よりピュアに観念性を感じるんじゃないの。

Houxo Que: でもそれって、印刷とかが生まれてきたときも同じような変換が起きたはずなんだよ。一つの領域を保存するときに、必要なものの量っていうのが、明らかに技術が発達し続けている中で、どんどん小さくなっていっているわけだよ。それは、なにもデジタルが発明したんではなくて、それこそ、最初は石を掘った情報を運んでいたわけで。それが紙になった瞬間にものすごく小さくなった。

LLLL: ポスト・グーテンベルグ、印刷技術以降の世界にいる。そことの戸惑いがあって、人が自然回帰だとか、アナログに戻っているっていう感じがあるのかな。

Nukeme: デジタルが生まれて、急に新しいものが生まれたっていうんじゃなくって、ただちょっと極端になっただけ。

Houxo Que: 多分 圧縮されてでてくる比率が急速に膨れ上がっていった可能性がある。まあ、それこそ、今はバイナリーで済んでいるからいいけど、それが、量子の世界になってきたら、いよいよ訳がわからなくなる。

「現在」「私」の産地証明

LLLL: そうだよね、量子コンピューター って最近出てきていて、あれもまさに実用化がかなり進んでいると聞いていて。あれも1か0かっていうんじゃなくって、1も0も両方ともっていうもの。僕たち、物理の世界で生きていて、感覚的に理解することが不可能なところにいってしまって、それに対する恐怖があるっていうのは、すごく自然なのかなって思うんですよね。

Houxo Que: たぶん、単純に私たちの身体レベルではわからないんだよ。実際、コンピュータの中で何をやっているかわからない。例えば、平川紀道というアーティストがいて、彼は、映像をリアルタイムコンピューティングで生成するプログラムで作る。そこで「リアルタイムってなんだ」っていう疑問が出てくる。同一の映像であった場合に、リアルタイムなのか、プレレンダリングなのかどうかを、コンピューターの中だけでは証明することができない。コンピューターの中で起きている演算のことはわからないから。そもそも、プレレンダリングも実際コンピューターの中では演算しているんだから、リアルタイムじゃないのかとか。(出典: CBCNET 特集企画 平川紀道 「lower worlds」

LLLL: リアルタイムか否かというのは、一度コンピューターの中で、レンダリングしてるか、してないかっていうこと?

Houxo Que: そう、その場で処理してるか、やっているかどうかっていうこと。

LLLL: なるほど。

Houxo Que: 実際、中でコンピューターがどういう風に電気が流れて、どういう風に演算しているのかっていうのは、人間には全然わからない。わからない領域では、人はなにかストーリーを作らないと、それに対する対応ができなくなってしまうのかもしれない。

Nukeme: 観念の袋小路に入っていくよね。

Houxo Que: そうそう。だから、いきなり、ブラックボックスに入っちゃうっていう瞬間がある。もちろん、コンピューターの設計者とか、そういったレベルの人だったらわかるのかもしれないけど、一部の人にしかわからないって思ったときに、なにかしら、引き付けて考えてしまうのではないか。

この、コンピューターの、技術的無意識の話に近いと思うんだけれども、なにかそういったものに立ち会ったときに、私たちの言語に置き換えないと意識の領域までもってこれない。つまり、無意識のままだと、認知の領域まで引き上げることは不可能というのが確実にあると思っている。たぶん、そういうことがこれからどんどん増えてくる。なんでかっていうと、たとえば、この持っているスマートフォンもそうなんだけど、だいたいみんな、日常生活のかなりの時間を預け出している。

スマートフォンをもって、こうやって立ち上げて、誰かと話したりとかしているときに、こう、僕は、友達と、こうやってチャットできてる、意識の疎通ができてる、言葉を交わせれるって思うんだけれども、これが、ぼくが入力した文字をどういうふうに情報に変えて、電話網というか、パケット通信とかをかりて、相手に送って、それが相手に表示されてっていう経路の中で、なにが起きているかっていうのは、全然わからないんだよね。こんな手元に或るものなのに。

で、そういうものが、あきらかに、どんどん囲まれ続けているからだとすると、さっき話した、この画面を窓としてみていて、向こうになにか空間があるのではないかと感じてしまう、この中に起きていることっていうのが、私たちにとっては、まるっきりわからないことになってしまう。いや、でもまてよ。中はわからなくても外側は触れるよな、みたいな、そういうシンプルな話から、僕はペインティングをしている。

まず、自分が関われるところから、関わっていかないと、関係性が一生つくれないまま、わけわかんない状況に押し込められてしまうので、技術的無意識と、どうラディカルにつきあうかというか。一瞬、ちょっとこう、自分の意識の水準を落とすというか。

LLLL: そうだよね。

Nukeme: 赤ちゃんがとりあえず、口に運ぶ、みたいな感じ。

Houxo Que: そうそう。味を確かめる、みたいな。なんでかっていうと、結局、どんなに自分の記憶を外部保存し続けたとしても、その、私がここにいるっていう絶対的な感覚って、身体の中にあり続けるってことはいまだに変わっていない。しかし同時に社会的に自分自身を定義するものというのは、自分の外側にたくさん増えだしている。この齟齬の中であってもまだ私はここにいるんだから、まずはここから試みなければならない。

Nukeme: 僕、Semitransparent Design っていう会社に所属してるんですけど、飲み会の時にビットコインとかブロックチェーンの話になって。FacebookとかTwitterとかで、私はBotじゃない、このアカウントの本来のユーザーですよって証明するのに、別のデバイスからパーミッションを要求されたり、2段階認証させられたりする。一ヵ所じゃなくて、相互的にチェックをし合うわけですよね。それで、ブロックチェーンにおいて,これは二重に作られたり、不正に取得されたコインではないと証明するように、「私は私である」というのを証明する、究極の方法はあるのかっていう話をしてて。それが、0.00000……秒前まで物理的にこの場にいたっていうことを連続的に証明していくっていうことになるんじゃないかって話になった。すごくおもしろいなと思った。

位置情報を、IoTとか用いて物理的に、物がいまここにある、こういう状態であるということを、マッシヴな状態でネットワークに送り続けられるようになったとしたら、究極的に解像度の高い位置情報が本人証明になるっていうこと。いまここにいて、急にロサンゼルスからログインとかしたら、Gmailとかで警告きたりするけど、それよりもっと細かいもの。「今、三茶にいますよね、池尻じゃないですよね?」っていう警告がくる。

Houxo Que: トレーサビリティだね。

Nukeme: そうそう、トレーサビリティ。

LLLL: それ、恐怖心、単純にあおっちゃいますね、なんかね怖いなって思っちゃう。

Houxo Que: 怖い。でも、スーパーの野菜ってトレーサビリティの塊だよ。最近。

Nukeme: 産地証明ね。

Houxo Que: 私が作りました、みたいなさ、写真付きの。農家ですみたな、愛情こめて作りました、みたいな。おそらく先進国の情報社会は、伊藤計劃の『虐殺器官』みたいに、どんなものにもタグつけされていくようになってくるんだと思う。

実際、日立なんかはアーバンソリューションという分野での監視カメラのシステムの開発していて、フェイストラッキングして、それから服装、持っている物、鞄とかそういったものを全部記録させて、それがどこにどう移動していったかっていうのを追跡して、例えば、どこかで鞄をもっていなくなったとしたら、どこで鞄を置いたかっていうのをある程度特定できるようになってきている。テロ対策とかで、本来開発されてきている技術なんだけど、やっぱり、どこか気味が悪いんだよね。

LLLL: そうなんだ。

Houxo Que: やっぱり、一部からはそういう反応はされている。パノプティコンみたいで気持ち悪いみたいな。身体がある種のキー、アクティベーションキーなんだけど、ただ身体をアクティぺーションキーに使うのって、結構、限界があるような気がしている。それこそ声紋認証とかも、双子で突破で来ちゃったりすることもあるらしいし

Nukeme: iPhone Xの顔認証も、双子で突破できる っていうよね。

Houxo Que: でもすごいよね。例えば、荒川修作は建築的身体と言って、(環境が「わたし」を作るのなら)人間を使って「わたし」の環境を変えようとしたけど、今は外部から認証される身体が「わたし」なんだという、この後退した現状が。そして、この場合の身体って、機械に見られることが要件である以上、記号的なので(いずれは技術的に)コピーして突破可能だから、結局は「わたし」という存在の入れ物程度の扱いになっている。心身二元論ですよ。それなのに社会的には中身じゃなくて入れ物しか問題にされない。じゃあ、その中身の「わたし」はどうやって情報として証明するのかみたいな話になっちゃう、最終的にはね。(出典:荒川修作、小林康夫『幽霊の真理―絶対自由に向かうために 対話集』(水声社, 2015), 「ICC インタヴュー・シリーズ 02:荒川修作」(HIVE))

Nukeme: そしたら、記憶と組み合わせるしかない。

Houxo Que: そう、だからやっぱり、そこで連続性なんですよね。つまり、アナログで補完している。今はそういう時代なんですね。

Nukeme: でも健忘症のひとはどうするの? さっきの話では?

LLLL: それはもしかしたら、「自我とは何か?」みたいな話になっていきますね。記憶喪失した人は。

Nukeme: そうなんですよね。「ちょっと最近守護霊が変わって、記憶が変わりました」とか、ありえるよね。

LLLL「Indefinite Grounds (feat. Yeule)」(ZOOM LENS, 2018)

Part.2へつづく)

Main Visual: Nukeme – “Broken PayPal”(2014)

Information

Nukeme:
「フリクリクリ展」
18年の時を経て続編公開が発表されたアニメ作品「フリクリ」。フリクリ好きなクリエイターによる作品展示やフリクリ公式資料も展示。

日程: 2018年4月4日(水)〜2018年4月15日(日)
時間: 11:00-20:00
会場: GALLERY X BY PARCO (渋谷区宇田川町13-17)
入場料: 無料

参加クリエイター: ウエダハジメ、陽子、F*Kaori、GraphersRock、Jenny Kaori、NC帝國、Nukeme、Utomaru

Houxo Que:
ATELIAIR (アトリエア)
東京を代表するクリエイターやアーティストが想像をかきたて、「エア」の解釈と新しい表現に挑む場所「ATELIAIR」が期間限定オープンします。一般開放期間中、来場者はこの場所から生み出されていく最先端のクリエイションを体験できます。

日程: 2018年3月17日(土) – 3月25日(日)
時間: 17日(土)12:00 – 20:00, 18日(日)- 25日(日) 11:00 – 20:00
場所: 東京都渋谷区神宮前6-19-21
入場料: 無料
INSTAGRAM: @ateliair_tokyo

参加クリエイター: ALEXANDER JULIAN, BIEN, HOUXO QUE, KENICHI ASANO, KOTA IGUCHI, MAGMA, MAITO OTAKE, MEGURU YAMAGUCHI, YANG02, YUDAI NISHI etc.

Houxo Que『apple』
展示期間: 2018年3月2日(金)- 2018年4月1日(日)
開廊時間: 12:00 – 19:00(木 – 日曜日)
会場: Gallery OUT of PLACE TOKIO
休廊日: 月・火・水曜日 休廊

“この度 Gallery OUT of PLACE TOKIO では、2018年3 – 4月期の展覧会として Houxo Que『apple』を開催いたします。
Houxo Queはグラフィティに出自を持ち、ストリートでの壁画制作を主に作家活動を始めました。近年ではディスプレイに直接蛍光画材を用いてペイントする絵画作品「16,777,216view」シリーズを中心に、現代美術の分野で活動の幅を広げています。
Houxo Queは絵画における光の重要性をしばしば強調しますが、その真意は、現代社会の中で我々が日常的に目にする光の多くがディスプレイから発せられている事に着眼し発表して来た「16,777,216view」シリーズに込められています。今回の新シリーズ『apple』では大胆にも、今や現代人の生活とは切り離せないデバイス(iPhoneやiPadなど)を支持体にしています。
今回展示される作品はインターネットを通して向こう側の世界とリアルタイムに繋がっている現代社会を象徴し、鑑賞者は作品を「見る」と同時に「見られている」と云うアンビバレントな状況に身を置くことになります。鑑賞者に光の深淵を覗き込ませる様な、Houxo Queのリアルタイムな絵画を是非この機会にご高覧ください。(Gallery OUT of PLACE TOKIO、公式ウェブサイトより)”

LLLL:
ZOOM LENS Presents: FATHOM
日程: 2018年4月8日 (日)
時間: 16:00 to 22:00
会場: CIRCUS Tokyo
料金: 2,500yen(Door) / 2,000yen(Adv)

出演:
テンテンコ/Tentenko [LIVE]
Sho Asakawa (PLASTICZOOMS) [DJ SET]
Meishi Smile
LLLL
Yeule [JAPAN DEBUT]
小林うてな/Utena Kobayashi
Ermhoi
Smany & Nyan-Nyan Orchestra

企画: LLLL + UNCANNY

構成: T_L + MMHT

アシスタント:
平田梨紗
1997年生まれ。青山学院大学総合文化政策学部在籍。

神ひより
1998年生まれ、青森出身。青山学院大学総合文化政策学部在籍。音楽藝術研究部に所属。