ARTIST:

Seiho

TITLE:
Collapse
RELEASE DATE:
2016/05/18
LABEL:
Leaving Records / Beat Records
FIND IT AT:
Amazon
REVIEWSJune/06/2016

[Review] Seiho | Collapse

 先日、ラジオを聴いていると、ふと、劇作家・演出家である平田オリザ氏の話が耳に入った。長年、日本の現代演劇の草分けとして活動してきた彼だが、近年は大阪大学の石黒浩教授と手を組み、「アンドロイド演劇」なる演劇に挑戦しているのだという。私は、演劇とは、実際に人が目の前で演技をするという臨場感が一つの醍醐味であるかもしれない、という風になんとなく考えていたので、わざわざアンドロイドに演劇をさせるという意義についてはやや考えるところがあった。番組内でも、「演劇をアンドロイドにやらせるとは一体どういうことなのか」という話が盛り上がり、ちょっとした議論になった。

 氏は、そもそも演出をするという点において、俳優相手とアンドロイドでは全く指示が変わらなかった、と言う。元からイメージを駆使した演出を行わず、「0.3秒遅らせて」といった演出方法で以て舞台を創り上げてきた彼にとっては、俳優とアンドロイドというものの区別について、とりわけ境界は無かったようなのである。

 「人間」と「アンドロイド」の差異は、前者が生物、後者が機械である以上、一見火を見るより明らかなようである。しかし、平田オリザという演出家による演出の前では、演出内容が変わらないという意味では「俳優」と「アンドロイド」に境界は無く、せいぜい口で指示をするかプログラミングを行うかくらいの差異でしかない。勿論、全ての演出家が同じように指示をするわけではないので、人によって「人間」と「アンドロイド」の差異は様々である。人間とアンドロイドを配置して一緒に写真に撮ってしまえば、出来上がった写真の状態によっては、一体どっちがどっちなのか分からなくなってしまうのかもしれない。事象を切り分ける境界というのは、明白なようでいて、実はとても曖昧な存在なのである。

 最終的に、この番組での対話では「人間とアンドロイドの差異とは一体何なのか/人間性とは何なのか」というところまで話が膨らんでいった。

 Seihoによる新譜『Collapse』がアナウンスされ、「Peach And Pomegranate」が先行曲としてSoundCloudに公開された時、私は正直、これから何が起こるのか全く想像がつかなかった。既存のビートを参考に創られているようでいて、しかし全く何か異質なものに感じられた。要素を分解すると、クラブ・ミュージック的な展開が排除され、波が寄せては返していくような、より繊細な動きを行っている楽曲であることがなんとなく理解出来た。しかし、これが新作の中でどういった立ち位置を示すのかについては、最終的に作品を頭から聞くまで全く解らなかった。

 『Collapse』は、全体で30分少々というやや短めの尺にも関わらず、その短さを一切感じさせない、充実した体験をもたらす作品だった。内訳の半分は、まるで目にも付かない速度で連想ゲームが行われているような先鋭的な楽曲で、もう半分は彼がライブで見せるような野性的な危うさと美麗を湛えたダンス・ミュージック的な楽曲で構成されている。アルバム通しての展開は非の打ちどころがなく、ビート作品とアブストラクトな作品が綺麗に並べられ、およそ半分がかなり実験的な要素によって組み立てられているにも関わらず、統一感のある作品として仕上がっている。実験的な要素もただ奇抜なだけでなく、「Collapse (Demoware)」の緩急を巧みに使ったイントロから、「The Vase」の緻密に組み立てられたサウンドスケープまで絶妙な構成を見せ、コラージュ的というよりも、まさにこのアルバムのアートワークのような、超現実的なイメージを掻き立てられる。

 アルバムに聞き惚れ、何度も繰り返し聴いていくうちに気付くのが、展開の不定性である。そもそもビートを構成する要素がほぼ無い楽曲が多数あるので当然であるが、ライブでも度々プレイされてきた「Edible Chrysanthemum」においても、クラブセオリーの意表をつくような展開が何箇所か用意されている事に気付く。この足と胴体の動きがバラバラになっているような微妙なズレというのは、そもそも彼の過去作品である「3D Printer」にも見られるものである。この楽曲も、クラブにおいて様々なDJがプレイしているのを聴いたが、度々発生する半小節のシンセサイザーのズレこそが、却って人間のダンスに対する根源的な何かを想起させているようにも感じられた。

 この感触は、私が「Peach And Pomegranate」を最初に聴いた時の違和感と結びつくものでもあると感じた。ダンスビートのセオリーとして、主観的になんとなく定義していたものをズラされると、そのビートミュージックを定義していた要素が腰砕けになり、それとそれ非ざるものの境界が顕になる。私の中でなんとなく定義していた「ダンス・ミュージック」の要素が、全てではないものの一部崩され、ついには自ら行った定義の不確実性を見つめなおす事となった。

 アルバム・タイトルとなった「崩壊(Collapse)」という言葉について、私が個人的に感じたこととしては「境界の崩壊」であった。彼が発言していた、フィールド・レコーディングとサウンドライブラリの環境音を同時に使うという発想も、実情とイメージの不一致によって、世界観のエラーを発生させ、それによって顕になる境界を崩壊させる、という意図があるのではないかと考えられる。更には、Seiho本人が、そしてその周りのアーティスト達が感じてきていたここ数年の「停滞」とは、この様々な「境界」というもの自体に苦しめられ、何らかのセオリーでもってそれぞれの音楽の価値観を自縛せざるを得なかった状況のことなのではないか。

 そもそも、自縄自縛に陥る環境そのものは悪なのではなく、むしろその環境で発生するものに価値が認められたからこそ、その価値を持続させるために共同体が「停滞」の方向に流れ、そういった現状が発生したのだという風にも考えられ、また、そういった方向に共同体が動くのも生存本能的に極自然なことにも感じられる。問題は、「停滞」と「崩壊」の2択が例えばあるとして、どちらの方向を選ぶか、なのである。精密なアンドロイドが登場し、人工知能が発達しつつある世の中であるからこそ、人間が出来ることは何なのかを考えることが出来るのと同様に、『Collapse』のような作品もまた、停滞という現状から次の方向性へと舵を切る為に、Seihoが投げかけたメッセージであるのかもしれない。

 上述したラジオでのインタビューが興味深かったので、平田オリザ氏の文面インタビューを幾つか読んだ。その中で、教育という現場で「コミュニケーション」という問題にも立ち向かっている彼は、「人間の心とは人間関係の中で生まれるものだと仮定し、アンドロイド演劇によって、ロボットもまたそういう意味で心を持って演技をしていると人間は感じることが出来る」と発言している。心が持っているはずの特性をプログラミングで得ることが出来るロボットというのは、なんとも不思議で、すぐには飲み込めなさそうなものである。更に、これからの研究の発展に伴って、ますます心に近い何かを持ったロボットは多く出てくるだろう。人間性の境界もまた、これからますます揺らいでいくのだろうか。

文・和田瑞生


1992年生まれ。UNCANNY編集部員。ネットレーベル中心のカルチャーの中で育ち、自身でも楽曲制作/DJ活動を行なっている。青山学院大学総合文化政策学部在籍。