EVENT REPORTSNovember/22/2017

[Event Report]Enter The Noise 騒音楽舞踊競奏 – RED BULL MUSIC FESTIVAL TOKYO 2017

 表現とは何か。それはアーティストのみならず、多くの人が対面する思想的テーマである。表現の定義を、自身の思想・技量のアウトプットそのものに求める者もいれば、アウトプットが伝わるその過程に求める者もいる。後者の思想において、伝わらない表現という状態は心地の悪いもので、その表現にテコ入れをするマーケティング的概念、もしくはアウトプットそのものを統制するマネジメント的概念、あるいはその両方の知見が注ぎ込まれる。そうすることで、伝わらない表現は伝わる表現に塗り替えられていく。

 伝わる表現は多かれ少なかれ人々の感覚の中にインストールされていて、ミクロな概念では対人コミュニケーション(目の前の人にどう接するか?)、マクロな概念では社会の形成がそれによって行われているとされている。それが、我々が時に社会的生物と定義される所以である。歴史を遡ると(歴史というものも「物語」という伝わる表現をベースに定義された社会的な概念かもしれない)、現在の人間社会の大部分のベースに敷かれているであろう資本主義社会は、部族同士、ムラ同士の交流から始まっていることが理解できる。効率的に、より多くの利益を物々交換で得るために、表現技術は活性化し、新たな手段が次々生まれていく。現在の人間の土台には、遺伝子と並立する形で、歴史という見えない強大な文脈が注がれている。

 現状は、我々はコミュニケーションをベースとした社会の上に立ち、その中で伝わるという状態は、人間同士のつながりを強固なものにするために必要なものである。しかし、伝わっている状態が優位に立っている状態は、同時に伝わらない表現もあるという事実から目を背けさせ、人間の芯にある孤独をより深い闇の彼方に押しやってしまいがちだ。だからこそ我々は、孤独を慰める手段をいつだって発明してきたのである。一つは、人々の孤独の中にも眠るはずの共通項を洗いざらい探し出すようなことで、今では舞台演劇や小説がそういった機能を果たしている。そして、更に深淵にある孤独を表現することもまた、我々を救済する手段となり得るのかもしれない。

 椅子の載せられた台座、ポール、アタッシュケースに詰められたラジカセ。雑多な舞台装置が今回の会場である六本木SuperDeluxe全体に散りばめられ、大量の観客たちは居場所を探りながらそのフロアの内側に視線を注ぐ。パフォーマンス・アート集団であるANTIBODIES Collectiveの舞台は、乱雑でありながら文脈的なとっかかりが薄く、またパフォーマーも、一人一人が歴史も舞台背景も全く異なる衣装を着ていてその理解が難しい。

 マッドサイエンティスト、人形、巫女、紳士、貴婦人……。改めて一人一人のパフォーマーを見ていくと、それぞれが何かの表現を観客側に向けてこようとしているのがわかる。しかし、それぞれがてんでバラバラに動き、それぞれの文脈をどんどん積み上げていくので、全体を通した解釈は解りやすいくらいに不可能である。全員があさっての方向に動き、時々交わって、また、ただでさえ観客と演者の物理的な境界が無い会場で、彼らは観客の隙間を縫って人混みに潜り込んでいく。それらをどうにか繋ぎ止めるように、もしくは流石としてそれがなくては舞台として機能しないかのように、ノイズミュージックが目の前で痙攣的に演奏されていく。

 舞踊、叫び、演説、ポールダンス。全ての出来事が同時多発的に起こる、というより、全ての出来事が因果を持たずに発生している。我々は、多岐に渡った情報をひとまとめにし、抽象化することで物事を認識することに慣れすぎていて、情報の圧縮を拒む表現に接すると、何も見出せないことに怯えて目を背けるか、アウトサイダーの捺印をして見切ったふりをしてしまいがちである。彼らは、その膠着状態すら観客に許さないかのように辺りをふらつき、時々我々にコミュニケーションすら計ろうとする。だから、観客は独特の緊張感の中、それぞれ目の前の違うものに注目し、次々に視点を逸らさざるを得ないのである。

 ANTIBODIES Collectiveの1時間弱ほどのパフォーマンスが終わると、今までモジュラーシンセが置いてあったブースから斜向かいの位置からスモークが焚かれ、明らかに熱量の増したけたたましい轟音が鳴り響いた。MERZBOWのライブが開始した瞬間であった。MERZBOWは、大量のエフェクターを机にセットし、マンドリンのような形をした増幅装置を抱えて、黙々と音像を作り上げていく。今までそこにあった情報の乱雑な配置と対照的に、あらゆるものが吹き飛ぶようなMERZBOWのノイズミュージックは、我々の意志とは一切関係なく発生する自然現象のような神々しさがある。その現象に立ち向かうかのように、ANTIBODIES Collectiveも今までのドレスを脱ぎ、更に原始的な出で立ちでパフォーマンスを始める。

 パフォーマンス・アートとノイズの対立は、コミュニケーションというよりどちらがその場の主導権を握るかの対決のようだった。嵐が吹き荒れ、生命が立ち向かうような構図は、まるで根源的な感覚を揺さぶられるようで、とても神々しく見えていた。

 芸術表現というのは煙に巻きたがる性質を持つある種厄介なものである。アートとして指定される瞬間に、最適解の伝達の道は閉ざされ、表現に対して向き合うためには、自分から対象への獣道を往復するほか無い。それは孤独な作業だが、それを抜ければ、どこまでも拓けている風景に呆然と見惚れるかのような、純粋な発見の喜びがある。コミュニケーションの加速によって情報が累積し、意味が何重にも張り巡らされたこの社会に於いて、世の中におけるノイズは、そうやって物事の傍道に逸れ、獣道を用意し、徹底的に嵐を吹かせることで、凡ゆる人々の孤独と同じ立場に立ち、それらを救済する。

Photo: (c)Yasuharu Sasaki / Red Bull Content Pool

Link: RED BULL MUSIC FESTIVAL TOKYO 2017

文: 和田瑞生
1992年生まれ。青山学院大学総合文化政策学部卒。UNCANNY編集部所属(非常勤)。ネットレーベル中心のカルチャーの中で育ち、自身でも楽曲制作/DJ活動を行なっている。SWITCH特別編集号『Maltine Book』(2015)共同編集、「ポコラヂ」PA/エンジニアリングなど。