- ARTIST:
Hair Stylistics
- TITLE:
- Dynamic Hate
- RELEASE DATE:
- 2013/9/11
- LABEL:
- disques corde
- FIND IT AT:
- Amazon
- REVIEWSSeptember/11/2013
【Review】Hair Stylistics|Dynamic Hate
資本主義の差異化の要請によって残酷なまでにすべては等価に扱われ、ジャンルの自明性からそれに寄りかかった作者の権威、作品の形態に至るまですべてが分裂、細分化する時代に突入したのが東西冷戦崩壊後、インターネットによってその過程がグロテスクなまでに顕在化するようになってから二十数年。James Ferraro、Oneohtrix Point Never……、Vaporwaveの有象無象の輩たちが、分裂症的に創作物を排出し続け、歪んだユーモアと困惑自体を楽しんでいるかのようにすら見える昨今、もしかしたら、その道では先駆けとも言えるかもしれない人物がとあるアルバムをリリースした。果たしてその意味、あるいは無意味とは……。
ミュージシャン、映画評論家、小説家、エッセイスト、画家、イラストレイター……。いくつもの領域を横断し、常に様々な肩書が付いて回る男、中原昌也。「暴力温泉芸者」として音楽活動を開始し、1997年にHair Stylisticsに改名、そして全体で50枚とも60枚とも言われるCD-Rまでも含めた膨大な作品群の発表の上に今回、〈disques corde〉からリリースされたのが今作、『Dynamic Hate』である。正直に言うと一聴して最初に湧き上がった感情、それは困惑であった。良い意味での驚き、サプライズというよりも正に困惑である。ヨレたビート、奔放な越境性から最初に想起されたのはJ.Dilla~LA Beatsに至る流れ、特にRas Gが持つトライバルでローファイ寄りのビート、辺境音楽~エクスペリメンタル/ノイズまでをも取り込んでしまう雑食性との共通する皮膚感覚だったが、〈Brainfeeder〉周辺のコンピューターナイズされたエレクトロニック・ミュージックと比較すると、今作は懐古主義的と言えるほどかなりアナログなアルバムだ。何しろ、今作の録音に使用された機材はEnsoniq SP1200、AKAI MPC3000、ROLAND TR-808、ARP2600など、前世紀の遺物と言ってもよいくらいの数々のヴィンテージ物である。もちろん、現在でも愛用者は数知れない名器ばかりであるが、その録音方法がさらに輪をかけてアナログなのだ。最初は一発録りでCDに書き込んでいたが、制作中にCDライターが故障、結局苦肉の策としてさらに時代を遡り、カセットデッキで録音したマスター音源をDATに起こしたという、もはやいつの時代なのだというアナログぶりである。今作のファットで豊かな音色を備えたビートは、正にこの方法でしか得られなかったものであろう。常日頃からパソコンへの嫌悪を口にしてきた氏の態度から察するに、そこにビート・ミュージックの方法論における批評性すら垣間見える。
しかし、この音楽は果たしてヒップホップなのだろうか? 「Deep Snake Eater」~「Fear Of Beauty Bungalow」といった70年代的な実験精神に溢れた楽曲などは、Ras Gよりもさらに遡った源流に位置するLAの奇才集団、LAFMSの白痴的でエッジの効いたシュールレアリズムの方に親近性があるように思える。ヴィンテージな乾いた質感とアナログ・シンセによるシュールで怪奇映画のようなメロディとノイズは、ヒップホップというよりも氏が好むところの(ダメ)インダストリアル、Throbbing GristleやCabaret Voltaireなどの系譜にあるだろう。「Empire of Plesure」などはまるでCabaret Voltaire版ヒップホップか。隙間の多いスカスカの構造という点から見れば、ダブステップの突然変異種とも言えるShackletonからダブのベースラインを抜いたような感覚はあるが、偏執狂的で強迫的な側面はあまり感じられない。ましてやテクノやハウスではもちろんない。全く持ってどこから眺めても中心がなく、あれでもない、これでもない……という否定形でしか形容出来ないような奇妙なビート・ミュージックだ。
そもそも、暴力温泉芸者~Hair Stylisticsに至るまで、究極の無意味を志向するというパラドキシカルな姿勢を貫いてきた氏の音楽的強みは、何と言ってもその「中心性」がどこにもないことであった。音楽、映画、小説と諸領域を横断する氏の活動であるが、その全てに唯一共通しているのは、全てを徹底してフィクショナルに扱うということである。例えば映画でいえば、映像の意味とは作者が込めたメッセージ性や鑑賞者が自ずと理解できるシーンの意味のみから構成されるものではなく、それ以外の鈍い意味、意味なき表象の積み重ねによっても構築されるものである。音楽においても同様のことで、中原昌也の音楽は常に意味なき表象が織りなす世界の構造を反映している。そして、それは音響的な表象であれば何でも扱うことが出来るという意味で、構造しかない音楽、フィクショナルな骨組みなのである。その構造は意味ある表象を解体、再構築、あるいは野晒しのまま意味なき表象と同列に扱うことも出来、その異化・無化作用は氏の強烈な死臭を放つユーモアに包まれた過去の作品によって既に証明済みであろう。そして、構造しかないということは、何にでも成れて何にも属さないという点では他の追随を許さない独自性を持つものであり、その可能性の中心は未だ秘められている(私論では所謂デス渋谷系から、「解放的なノイズ」として海外で受容され、影響力を発揮したのもそのためだ)。
しかし、「無い」ということでしかその存在を証明できない独自性とは、いささか否定神学めいた部分もあり、下手すれば単なる音楽以下の雑音にしか成れない代物でもあることは確かだ (もちろん雑音すらも音楽的聴取の領域にあるのが現代だが)。しかし、常にその音楽がコンセプチュアルなアヴァンギャルドに堕することなく、冷酷なまでの世界認識、人間観によって常にグロテスクなまでの批評性をまとってきたように、今作はインダストリアル~LA Beatsに至る全方位的な歴史を包摂するだけの、緩やかながらも確固としたビートの批評性に支えられており、実践的なヒップホップとしては鎮座DOPENESSを客演に迎えた「This Neon World Is No Future」において、その効力は証明済みだろう。そもそも、構造しかない音楽とはヒップホップの一側面でもあり、その意味ではやはり今作は優れてヒップホップ的なアルバムでもある。ビートへの志向性は暴力温泉芸者の頃から垣間見えていたが、今作はビート・ミュージックの批評性とその本来的な豊かさを凡百のヒップホップよりも露わに証明しているようにすら思える。
しかし、などと戯言を重ねても批評も所詮はフィクショナルな産物、こんな駄文を読んでいる時点であなたは本作を買い、その耳で確かめるべきなのだ。
文:宮下瑠
1992年生まれ。UNCANNY編集部員。得意分野は、洋楽・邦楽問わずアンダーグラウンドから最新インディーズまで。青山学院大学総合文化政策学部在籍。