ARTIST:

Chelsea Light Moving

TITLE:
Chelsea Light Moving
RELEASE DATE:
2013/2/27
LABEL:
Hostess
FIND IT AT:
Amazon
REVIEWSMarch/28/2013

【Review】Chelsea Light Moving | Chelsea Light Moving

 2011年10月14日、オルタナティヴ・ロック界隈きってのおしどり夫婦として知られたThurston Moore とKim Gordonの離婚、そして、それに伴うSonic Youthの事実上の無期限活動停止。そのニュースは大きな衝撃として多くのリスナーに受け止められた。さらには同年の9月、共にオルタナティヴ・ロックの確立に多大に貢献したバンド、R.E.M.の解散のニュースと共に、一つの時代の名残が終焉を告げたような感覚すら抱いたことを今でもハッキリと覚えている。その前年には、Arcade Fireの3rdアルバム『The Suburbs』が第53回グラミー賞で最優秀アルバム賞を獲得したことが、形式的にとは言えインディがインディの姿を保ったままメジャーと同等に渡り合える証明となった。反面、先導者を必要としない時代に本格的に突入したと考えれば、喜ばしいことだったのかもしれないが、やはり寂しい感覚は消えないものだ。

 Sonic Youthは、1981年にデビューEP『Sonic Youth』でデビューしてから、80年代~90年代にかけてはインディペンデントな活動を通してオルタナティヴ・ロックの地位を確立し、彼らの影響を受けた無数のインディ・バンドたちから「帝王」と称えられるようなポジションを得てからも、想像力の赴くままにコンスタントな活動をし続け、結果17枚のオリジナルアルバムをリリースしていた、ロック・バンドの中でも長寿の部類に入るバンドの一つであった。そのバンドの活動停止、そしてThurston Moore自身としては、盟友Beckのプロデュースによるアルバム『Demolished Thoughts』を2011年にリリースし、世界中から好評をもって受け入れられ、バンドへのフィードバックが期待されていた矢先の出来事だっただけに、これからはバンドという形態を選ばずにソロとして活躍していく可能性も大いに考えられた。実際、自身のレーベル<Ecstatic Peace>からは多数のコラボ盤をリリースし、Sonic Youthとして活動していた頃も、多くのミュージシャンとのセッションや共演に旺盛な意欲を見せていた彼が、あえてバンドという形態を選ぶことに積極的な意義を見出すことも逆に難しいのではないかとすら思えた。

 しかし、彼は新たなバンド、Chelsea Light Movingのフロントマンとしてこうして帰ってきた。そして、あの歴史を背負ったバンドの活動停止後、一体どういう意図を持って再びバンドという形態を選び、作品をリリースしたのか確かめたくて本作を聴いた。しかし、結局そこに見えたのはどこまでも変わらないThurston Moore本人の姿だった。さらに言えば、歴史の重みから解放されたかのような瑞々しいノイズが、若返った感覚すら想像させ、躍動的な楽曲に込められた複数の引用や歌詞からは、自己の歴史を相対化し、新たに秩序付け、自分の位置を確認し直し、一周して再び同じ場所から始めようとしているかのような意志すら感じられる作品であった。一つの時代の終わりはそれと同時に、新たな始まりとなる可能性も秘めていたのだ。

 まず、アルバムは「Heavenmetal」というタイトルの曲から始まる。この楽曲は終始穏やかな曲調と、白さすら感じさせる柔らかいトーンのノイズ・ギターで演奏されたものだ。「エレキ・ギターを聴くということはノイズを聞くこと」が持論であるThurston Mooreの新バンドのアルバムの始まりとしては、いきなり意表を突いた展開である。フォーキーでエクスペリメンタルな雰囲気は、得意の変則チューニングを駆使したギターをいかに美しく響かせるかを意識した最近のソロ作品の志向に近い。その点からは彼自身の変化や今まで辿ってきた思索の跡を感じさせる曲だが、「Sleeping Where I Fall」からは、やはりお決まりのノイズ・ギターが響き渡ることになる。あの独自に研究した特殊な変則チューニング由来のクールな響きを持った独特のコード感、展開はまさしくSonic Youthの曲を彷彿とさせる。ノイズ自体の生々しくも低音重視の乾いた響きは、ソロアルバム『Psychic Hearts』で聴かせたものに一番近い。実際のライブにおいても、このアルバムから「Psychic Hearts」や「Pretty Bad」といった曲が比較的レパートリーとして演奏されているようだ。元々、Sonic Youth時代からクリシェや手癖的な作曲が多いミュージシャンではあったが、その次の「Alighted」に至っては、Sonic Youth初期の名曲「Death Valley’69」に似たようなリフで始まる。ここまでやられると本人もどこまで意識的なのか疑わしくなってしまう面はあるが、曲はそこからいきなりメタルのような重々しい展開に至り、最後は爆音ノイズで終了。実際のところは分からないが、半分自己パロディ的な意識すらあるのかもしれない。

 そして、過去の作品からの引用的な部分も含めて、ここから曲調が一気に自身の過去や音楽的ルーツと再び向き合い、それを相対的に網羅して展開したかのような方向に進んでいくこととなる。「Empires of Time」は、60年代のアメリカの初期サイケデリック・ロック史における重要バンド、13th Floor Elevatorsの中心人物Roky Ericksonに捧げられた曲だ(1) 。13th Floor Elevatorsは、Thurstonに多大なる影響を与えたNYパンクバンド、Televisionがライブでは「Fire Engine」をカバーしたり、R.E.M.がRoky Ericksonのトリビュートアルバム『Where The Pyramid Meets The Eye: A Tribute to Roky Erickson』では「I Walked With a Zombie」を演奏していたりと、アメリカのオルタナティヴ・ロック史においてはその源流のさらに先に位置するバンドであるとも言える。曲自体はメジャーに移籍し、『Goo』や『Dirty』を発表した頃の中期Sonic Youthを彷彿とさせる雰囲気を持ち、メランコリックな叙情性を纏った1曲だが、自身の源流に位置する人物に「俺たちはロックンロールの第3の心」と歌いかける何とも意味深な歌詞を持った曲である。そして、「Groovy & Linda」は、60年代、NYのフラワームーブメントにおいては伝説的だったカップル、Groovy & LindaことJames Leroy HutchinsonとLinda Fitzpatrickに捧げられた1曲だ(2)。1958年生まれのThurston自身の遠い原風景、あるいは夢想的原点としての60年代にまつわる曲がここでは並ぶ。そして、さらにそこから次の「Lip」では、景色は一気に70年代後半のNYへと飛ぶことになる。「Lip」の矢継ぎ早に短く繰り出されるギター、性急で挑発的な展開は、彼のより直接的な音楽的ルーツであるNYにおけるポストパンク・ムーブメント、No Waveを連想させるものだ。Thurston自身はその時代にギター・オーケストレーションを研究していた実験音楽家、Glen Brancaに師事していたが、「Lip」という単語と曲調でどうしても思い浮かべてしまうのは、James Chance & the Contortionsの中心人物James Chanceの方だろう。あの挑発的に突き出した「唇」で吹き上げる暴力的なサックスの音色は、彼の音楽にも沁み込んでいる。 そもそもNo WaveシーンはSonic Youthの世界的成功により、そのルーツとして日の目が当たり、伝説化された経緯を持つように、彼とNo Waveは切っても切り離せない。その敬意の念は今でも深いことが推しはかられる。そして、「Burroughs」に至ってはさらに分かりやすく、タイトル通り彼の永遠のアイドル、William S Burroughs を歌った曲である。文章の文脈を切断して再配置する「カットアップ」という手法で知られた作家であるBurroughsは、文学のみならず音楽の世界にも多大な影響を与えた。Thurstonがいつも書く時に難解で文脈が切断された歌詞もカットアップ的であり、音楽的にもかなり昔から応用されている(最もシュールな例がCiccone Youth名義で出した『The Whitey Album』)。アルバムはまるで自らのルーツを辿る旅のような体裁を見せているのだ。

 そして、ビートニク詩人的なポエトリーリーディングを聞かせる「Mohawk」を挟んで、今回のアルバムで一番重要なのは「Frank O’ Hara Hit」だろう。Thurston自身はこの曲を「傷つきため息をついていた自分の心を、神話的空想力によって歴史的な出来事の中に定義し直し、癒すためにリリースした」と語っている(3)。この曲から推しはかれる彼の真意とは何か。まずはFrank O’ Haraについて知る必要がある。

 Frank O’ Haraは、50~60年代のアメリカで活躍したNY派の詩人の1人であり、ニューヨーク近代美術館の学芸員でもあった人物である。そして歌詞に歌われている通り、実際に彼は1966年7 月24日の早朝、Fire Islandという場所でサンド・バギーと衝突し、40才の若さで亡くなったとされている。学芸員という職業柄、抽象表現主義の現代美術作家たちとの交流も深く、世界初の図形楽譜の発案者として知られる現代音楽家、Morton Feldmanが抽象表現主義絵画に触発されて「Frank O’ Haraの為に」(1973)という作品を作曲したように、現代音楽との関わりも深い人物であった。つまり、抽象表現主義と現代音楽という、ノイズ・ミュージックの成立においては重要な役割を果たした両者に歴史上深く関わった人物がFrank O’ Haraであった。そして、彼が亡くなった7月24日の翌日、7月25日の部分で歌われていること、これはかの有名なアメリカのソングライター、Bob Dylanが初めてフォーク・ソングから決別し、聴衆からのブーイングの中でもフォーク・ロックを歌ったという、ロックンロールの成立にとっても重要な出来事のことだ。そこで歌った曲が「Phantom Engineer(後に改題されたIt Takes A Lot To Laugh, It Takes A Train To Cry)」であり、その日はThurston Mooreの誕生日と同じ日付でもあった。

 そこからさらに、7月にまつわる出来事としてRolling Stonesのフロントマン、Mick Jaggerの誕生、Bob Dylanが生死を彷徨ったバイク事故と続いていく訳だが、結局ここでThurstonが歌っていること、それは改めて自己を「ロックンロール」というポピュラーミュージックの「神話」の中に、その擁護者として定義し直すということである。Sonic Youthを事実上活動停止しなければならなくなり、改めて彼が自己のルーツを捉えなおすと、そこには60年代のフラワームーブメント、70年代のNY、詞、芸術、現代音楽など様々なキーワードが存在した。この様々な要素が、今回はアルバム全体に渡って散りばめられている。しかし、最終的に全てを相対化して秩序づけし直し、なおかつ包括し得る自己の立ち位置として彼が見定めたのは、ロックンロールという「神話」の中だった。Frank O’ Haraが象徴する芸術や現代音楽といった「前衛の死」への哀悼を越えて、自己の誕生を「ロックンロール」の成立と重ねあわせる、それが彼の選択した現在の自分の立ち位置だったのだ。即興的なフリーフォーク・シーンの強者たちを集めたChelsea Light Movingのメンバー編成で、あえて彼にとっては慣れ親しんだロックンロールを演奏すること、これもその選択の帰結を裏付けているように思える。ただし、この「神話」への回帰は、もちろん決してロックンロールへの無批判な結果として選択されたものではない。現在においても、NYのアンダーグラウンドな世界に君臨する伝説的ノイズ・ギタリスト、Loren MazzaCane Connorsとのコラボ・アルバム『The Only Way To Go Is Straight Through』を今年4月にリリースすることが決定しているように、Thurstonの音楽には単なるロックンロールを超えた含蓄と経験が蓄積している。

 そもそも、難解な音楽に捉えられがちなSonic Youthが、80年代以降の闘争を通じてオルタナティヴ・ロックの土壌を育むことが出来たのは、NYのNo Waveシーンという、ポスト・モダンを追求し過ぎたあげくに自己破壊的な末路を迎えた音楽的実験場の上から、それでもなお音楽的可能性を信じて自分たちの音楽を発展させてきたからに他ならない。ロックンロールの「ポピュラーミュージック」としての貪欲性、聖も俗も全て飲み込んで成長してしまうブラックホールのような性質に懸けてきたからこそ、今に至るまでオルタナティヴ・ロックの道は続いてきたと言えるのではないだろうか。聖としての前衛性と、俗としてのSonic Youth、この天秤の間のバランスこそがThurston Mooreとしてのアイデンティティを形成してきたと言えるのだ。そして、Sonic Youthに代わる新たな俗、それがChelsea Light Movingに求めた要素だと思わざるを得ない。

 さらに、逆に単なる「ポピュラーミュージック」に過ぎないことにも自覚的だからこそ、今のThurstonが放つノイズには、今までSonic Youthのフロントマンとして背負ってきた歴史の重みを軽々と超える軽さも備わっているように聴こえる。それが若返ったかのような感覚の正体だろう。それは以前、Hostess Club Weekender出演の為に来日した時の彼の演奏を思い返しても符合がいくことだ。御歳54歳のギタリストとは思えないくらいのあまりに無邪気な演奏は、これも自身のルーツとして語っている、少年の頃にLou Reedの『Metal Machine Music』を聴いた時の衝動性、アナーキズムに任せるような感覚だったのではないだろうか。

 結局は一周して同じ場所に立ち戻ってきただけだから、新たな音楽的発見はないとも言える。しかし、Thurston Mooreの歴史を包括し、この先の展開を夢想するためのアルバムとしてはあまりにも十分な作品だ(しかし最後はGermsのカバー「Communist Eyes」で締めるという、何とも彼らしい茶目っ気の利いた作品でもある)。

註:
(1) Matodor records Matablog  Chelsea Light Moving “Empires Of Time” & “Frank O’HaraHit”

(2) Matodor records Matablog  Chelsea Light Moving present “Groovy & Linda”

(3) Matodor records Matablog  Free Song #3 by Chelsea Light Moving: “Frank O’Hara Hit”

文:宮下瑠
1992年生まれ。UNCANNY編集部員。得意分野は、洋楽・邦楽問わずアンダーグラウンドから最新インディーズまで。青山学院大学総合文化政策学部在籍。


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