ARTIST:

Go-qualia

TITLE:
Xeno
RELEASE DATE:
2013/11/11
LABEL:
Virgin Babylon Records
FIND IT AT:
Amazon
REVIEWSJanuary/11/2014

【Review】Go-qualia | Xeno

 2013年11月、アイソン彗星と呼ばれる物体がニュースで取り上げられた。アイソン彗星は、地球から観測できる彗星としてにわかに注目されていたが、結局彗星は肉眼で見えないサイズまで小さくなってしまい、それは叶わなかった。彗星とは、そもそも宇宙の塵や氷から構成されている物体に過ぎない。しかし、彗星が太陽の熱に曝された時、彗星の氷は蒸発し、同時にガスと塵が放出される。放出されたガスと塵はそれぞれ彗星に尾を作り、輝きながら、宇宙空間を駆け抜けてゆく。つまり、彗星の輝きとは、すなわち彗星自体が削れながら発する耀きであり、太陽に近づく程大きく耀き、そして融けてゆく。アイソン彗星が結局肉眼で観測できないまま宇宙の表舞台から消えてしまったのは、太陽に近づく際にそのほとんどが融解してしまったからだという。

 広大な宇宙に対して、僕たちはただ「傍観者」でいることしか許されず、更には観測出来ない事象、人間の歴史をかけても憶測でしか語ることの出来ない世界がそこにはある。無機質な都市に緑を植え、花を咲かせようとは考えることは出来るが、消滅する運命にある彗星を少しでも生きながらえさせよう、と考える人は多くないだろう。宇宙の現象に対する圧倒的無力さ、それ故にかき立てられる果てしのないロマンと無限に湧き出る知的好奇心は、僕たちがこの星で生まれたがために得る共通の思念である。そして、干渉出来ないまま動き続ける畏敬すべき、未知なる対象を、芸術は度々テーマに取り上げ、挑戦し、対象への同一化を図ってきた。

 Go-qualiaによる2ndアルバム『Xeno』は、CDにして2枚組という圧倒的なボリュームで登場した。1stアルバム『Puella Magi』に引き続いて、彼が所属するWorld’s End Girlfriend主宰の〈Virgin Babylon Records〉からのリリースとなり、ゲストボーカルにはボーカリストであるやなぎなぎ、声優の門脇舞以といった豪華共演陣が参加している。このアルバムは、ヘレニズム期に記されたとされる書物から名前を引用したとされる「Catasterismi(カタステリスモイ)」、そして超新星残骸という意味を持つ「Remnant」から構成される。しかし、実際には、全体で一つのストーリーを持つというより、オムニバスのような楽曲集として機能しているように実感される。作品全体で共有される要素は、「人類が観測しうる宇宙/星の一生と死」というテーマと、宇宙を彷徨う「彗星」のようにアルバム全体を浮遊するボーカルサンプルのみである。壮大なる宇宙という「現象」自体に対するGo-qualiaの挑戦は『Xeno』という、「未知」を表す言葉を持つこのタイトルから既に予感されているものである。

 Disc1の『Catasterismi』では、ノンビートの空間に、雑多なサンプリングとボイスサンプルが配置された「Heliosheath」や、打って変わって凶暴なドラムビートと、往年のエレクトロニックアーティストを彷彿とさせるシンセリードが特徴的である「Nemesis」、Go-qualiaらしい過剰なグリッヂがうかがえる「Pleiades」「Milkomeda」などが収録されている。自由自在にサウンドを変えながら、かといって一定の調和を崩すことなくアルバムは進行していく。そして、アルバムを通して浮遊しているボーカルサンプルは9曲目「Betelgeuse」においてその全容を露わにする。門脇舞以による淡々としていながらも不思議な暖かさを感じるポエトリーリーディングと共に進行する前半部分から、それまでコーラスに徹していたやなぎなぎの歌声が一気にサウンドのメインへと雪崩れ込む後半への流れは、このアルバムの中でも随一の怒涛の展開として聞くものを釘付けにする。しかし、アルバム全体の流れはあくまでも淡々と、「宇宙」という空間を描写するために徹している。Disc2『Remnant』はDisc1より更に轟音へのアプローチが強くなっており、ボーカルサンプルも1曲目「Ginnungagap」で再度主題が登場する以外では鳴りを潜めている。

 先述の通り「宇宙」というテーマは、ある意味では使い古されたものであり、そして、だからこそ人類が追いかける永遠のロマンとして、色々な人間が描写しようとしてきた。今では宇宙旅行という言葉も現実味を帯びはじめ、空を飛び越え、アポロの月面着陸を果たし、人間は遥かな宇宙へ少しずつ手を伸ばすようになった。それでもなお、正体不明のダークマターが充満する果てしのない宇宙空間に、人間が持つ感情はむしろ「畏敬」であることも、僕らの共通認識として確実なものだろう。昨年末に公開され、話題を呼んでいる映画『ゼロ・グラビティ』もまた、宇宙空間に対して抱いている「恐怖」にフォーカスを当てた作品である。宇宙に手が伸びるようになっても、依然として解明されていない謎は多く、それどころか、その無限大にまで広がる空間を認識する度に、圧倒的な無力さを感じられるのは、何も筆者に限った話ではないはずだ。我々は新たなことを知る度に、我々が力なき存在であることを再認識させられるのである。そして、知的生命体である我々にとって、「無力であることの確信」とは大きな飛躍のために必要な工程であることも確かである。

 『Xeno』が描いたのは宇宙のファンタジーではなく、畏れ敬うべき宇宙空間という物体そのものであることは本人が発言している(注1)。だからこそこの作品には、人類の無限の希望が乗せられ、理解不能な事象に対する恐怖があり、そして、宇宙への限りないあこがれとロマンが込められている。僕が小学生の頃に読んだ学習漫画には、「人類は2050年に月面で生活が出来るようになる」と書かれていた。もちろん昔の話になるので今では計画も変わっているだろうが、Go-qualiaが『Xeno』に詰め込んだ音楽の中には、2050年を待ちわびる少年時代の自分がいたような気がした。

注1: CINRA .NET 『Go-qualiaとNaohiro Yakoが語る分解系とネットレーベルの今』インタビュー・テキスト:金子厚武(2013/10/28)http://www.cinra.net/interview/2013/10/28/000000.php より

インタビュー・文:和田瑞生
1992年生まれ。UNCANNY編集部員。ネットレーベル中心のカルチャーの中で育ち、自身でも楽曲制作/DJ活動を行なっている。青山学院大学総合文化政策学部在籍。